現在の稲美町は、豊かな水に恵まれた田園地帯となっています。しかし、明治の中頃までは、水不足に悩んでいました。特に母里地区は水田は少なく、約9割が畑で、綿や大豆などが主な作物でした。
ところが、明治維新前後、毎年のように干ばつが続きました。このため住民の生活は苦しくなりました。その上、明治6年から始まった地租改正によって税金が高くなりました。それに加えて、安い外国の綿の輸入で、綿の値段が暴落しました。このような悪条件が重なって、人々は、心の底から農業が十分できる水を待ち望んでいました。
母里地区周辺の地図(ヤフー地図情報)
当時の加古郡長北條直正は、地元の救済のために、税金を減額することや疏水事業を起こすことに力を尽くすことになりました。
ちょうどその頃、明治政府が、ぶどう栽培試験のために候補地を探しているという記事が新聞に報じられました。これを見た北條郡長は、印南新村への葡萄園誘致を思いつき、直ちにこの事業担当者だった福羽逸人(ふくば はやと)に陳情しました。「母里村難恢復史略(もりそんなんかいふくしりゃく)」によると福羽と村人が協議し、土地の買い上げが決まりました。話し合いの途中、土地の値段がなかなか決まらなかった時には、北條郡長が差額を出すということで、ようやく村の人たちの意見をまとめることができたということです。
「播州葡萄園」は、“ぶどう栽培とワイン醸造”を行い、その次にはワインの輸出までめざした当時の国家的プロジェクトでした。
葡萄園は明治13年3月から福羽を中心として、開園準備が進められ、同年の7月に園舎が完成しました。明治14年には、葡萄園内には約5万本のぶどうの樹が植えられました。
明治16年から、本格的にぶどう酒の醸造を試み始めました。このころ、現在の岡山市の大森熊太郎氏などが播州葡萄園をたびたび訪れ、ぶどう栽培技術を岡山に持ち帰りました。
明治17年頃には下の写真のような温室を建設しました。建坪4.5坪(約14.85u)の温室で、これは日本最初のガラス張りのぶどう温室でした。
さて、いま有名な岡山の温室ぶどうは、播州葡萄園のヨーロッパ種ぶどうの試食をして、その香や味に驚いて、葡萄栽培の決意を固めたことがそのはじまりであるといわれています。現在の岡山ぶどうの繁栄の中に播州葡萄園の技術が生き続けているのは、稲美町にとってはうれしいことです。
岡山県に現存するガラス温室。中では、マスカットが実っていました。
明治18年6月、園内のガラス温室のぶどう樹の根に数10疋(ひき)のブドウの害虫であるフイロキセラを発見しました。早速全てのぶどう樹を調べ、ぶどう樹 4,648本を支柱とともに掘り出して焼却しました。
さらに8月に台風が襲来し、ぶどうの樹が枯れてしまうなど大きな被害を受けました。
下の写真は、この時建築した醸造場を、明治36年(1903)6月に母里小学校へ移築し、3教室に転用したものです(母里小学校沿革誌記載)。玄関の部分が醸造場の「昇降口」となっているところです。
母里小学校ホームページはこちら
この醸造場跡地は、その後水田として使われていましたが平成8年10月の発掘調査によってその遺構が確認され、現在は「稲美町指定文化財」となっています。
明治時代に建てられた播州ぶどう園のレンガ造りの遺跡が発掘されました。
播州葡萄園は福羽から、「将来安い値段で地元に払い下げる計画である。」ことを知らされていましたが、実際はそうはなりませんでした。
明治21年3月には前田正名(まえだ まさな)という人に払い下げられあと、明治20年代後半に葡萄園は廃園同様になったと伝えられています。
画面右の台形の池は、「葡萄園池」です。池の名前にも、播州葡萄園が使われるほど、稲美町にとって播州葡萄園は大きな存在だったのです。
もし、害虫や台風の大被害や政府の農業政策の転換などもなく、順調な経営が続いていれば、山梨県や岡山県をしのぐブドウとワインの一大生産地となっていたかもしれません。
播州葡萄園での研究は、後世のぶどう栽培とワイン醸造に大きな役割を果たしたと思われます。また、稲美町について考えると、葡萄園のおかげでこの地方が注目され、後の淡河川・山田川疎水の建設運動に大いにプラスとなりました。