江戸時代の新田開発に引き続き台地の中へ水をという願いから、多くの人たちが安定した水を求めて、遠くの土地まで出かけて測量や調査をし、印南野台地に水を引く計画を立ててきました。しかし、費用や当時の姫路藩と明石藩との境界線などの問題でうまくいきませんでした。
明治時代になって国として一つにまとまった後、多くの人々の努力のかいあって、より多くの水田をつくるための疎水工事に着手することができました。それが、県下でも近代では最大規模の疎水工事、淡河川・山田川疎水でした。
明治21年1月からはじまった淡河川疎水工事では、多くのトンネル(二八カ所、五.二q)を掘る必要があり、特に、難しい工事となった芥子山トンネル(六八二m)は、地盤が弱く、わき水があるため、一日に六〇pしか掘れないときもあり、完成まで、実に三年二カ月を要しました。

難工事の様子を伝える当時の絵
淡河川から水を引くためには、途中、御坂というところで志染川の谷をわたらなければなりません。そこで、鉄製のパイプで片側の山から56.5m下り、川を渡して、対岸の山へ54m上って送水するサイフォン工法を採用することになりました。このような大規模なサイフォン工法は、わが国に例がありませんでした。
建設当時の様子。
多くの人々の努力により、明治二四年四月、三年四ヶ月かかって、待望久しかった淡河川疎水が完成し、淡河川の水がついに印南野台地に到着しました。水門が開かれ、印南野台地へと流れてくる水を前にして躍り上がって喜びました。

現在の御坂サイフォン。小学生が見学に訪れます。
稲美町の近くまで流れてきた水は、練部屋分水所に集まります。一度分水所の下をもぐり、中央からわき上がって、それから各地域に公平に分けられ、それぞれの地域へ流れていきます。流れていく水の量は、各地域の田畑の面積にあうように工夫されています。
建設当時の分水所
現在の分水所。水が勢いよく流れています。
疎水工事と前後して、稲美町と周辺の台地にはマンボとよばれる地下水路も掘られました。いずれも測量技術など、謎の部分が多いトンネル水路です。当時の人々の技術の高さを示しています。
疎水工事がはじまってから百年余りたった現在、印南野台地には緑豊かな田園地帯が広がっています。これは先人の知恵と努力の賜ということができます。
米の生産が増えると、酒造業などの産業もおこりました。大正14年には、稲美町内には、造り酒屋が八軒あったことが記されています。
今も酒造を続けている会社の方の話では、
「水のいいところに、酒造りがある。雨は降らんでも、井戸があった」
「ここの水は軟水だから、まろやかなんです。」
とのことでした。
稲美町の水が生んだ酒造業です。
今も残る造り酒屋の倉庫群。
よい水は、酢や醤油、みその醸造にも以前から使われていました。 さらに現在では、みりんの大規模な生産にも使用されています。稲美町の水は、そのまま飲んでも大変おいしい水です。それは地下深く、豊かな水脈があるからです。
味噌蔵
みりん工場
稲美町は、古来農業用水には乏しい土地であり、地上用水は豊富ではなかったのですが、良質の地下水が豊富であったことをしめしています。
加古大池の夕日